【トップチーム創設30周年企画】守屋実の未来への言霊(第10回)

メディア

FC町田ゼルビアは今年、トップチーム創設30周年を迎えました。
本コーナーではクラブ創設者の一人である守屋実相談役に、これまでの歴史を振り返ってもらいます。
どんな想いでこのクラブが作られ、市民クラブとしてどう成長し、Jリーグクラブとなり得たのか。
生き字引と言える守屋相談役からの“言霊”を心に刻み、今後の50周年、100周年につなげたいと思います。
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【第10回 関東リーグ2部昇格へつながった2つの改革】

 2002年から私、守屋実がゼルビアのトップチームの監督を務めることとなり、少しずつチーム改革を進めようと試みましたが、それは困難を極めました。東京都1部リーグからの降格危機に瀕した前年の雰囲気をどこか引きずるように、まだ同好会的な視点でプレーする選手が多いことは否めませんでした。

「プロを目指さなくてもいい。自分たちは試合ができさえすればいい」

 そう公言する選手もいました。例えば02年6月。日韓W杯の日本対ロシア戦当日に組まれたトレーニングでは、現在クラブの強化部長を務める丸山竜平しかグラウンドに姿を現さなかったというエピソードがあるほどです。そして監督初年度の02年は、東京都1部リーグを7位で終え、思ったような成績を残すことができませんでした。

 そこで私は2つのクラブ改革を断行することにしました。1つは03年に総合スポーツクラブ化を目指して、「NPO法人アスレチッククラブ町田」を設立。これはチームの運営を町田サッカー協会からNPO法人へ移管し、ゼルビアを組織的にサポートする体制を整えることである種の甘えからの脱却を図りました。そしてもう1つが現在ユースの監督を務める竹中穰選手兼コーチの加入です。

 その意図は、竹中を少年サッカースクール事業の責任者に据え、クラブとしての資金を稼ぐための仕組みを構築することが1つ。さらにトップチームの指導経験に乏しい私をコーチの立場からサポートしてもらい、プロクラブを目指す上で、修羅場をくぐり抜けてきた選手を加入させることでチーム内に刺激を与えたかったのです。私が竹中にこだわった理由は、海外リーグでの経験を持ち、決めたことに対して取り組む熱さがあるから。苦労して自らの夢を叶えてきた人物をチームに加えることで、チーム全体の意志を高みに引き上げようと考えていました。

 03年途中に加入した横浜FCを契約非更新になった竹中には、NPO法人の事務所まで来てもらって、ゼルビア加入をオファーしましたが、竹中は躊躇していました。

「先生、水曜日と金曜日、週2回の練習、こんなんじゃプロになれっこありませんよ」

 そう言って、私のオファーに対して、首を縦に振らない竹中をなんとか口説き落とし、チームに引き入れると、次第に効果が表れ始めました。練習日を1日増やし、火曜日をフィジカル強化にあてるなど、週3回の練習にしたことで練習内容は激変しました。そのため、所属選手も自然と淘汰される形となり、「ゼルビアをプロクラブにしたい」という熱い思いを持った選手たちだけが残りました。

 こうして竹中加入初年度の04年は、東京都1部リーグで3位に躍進。翌05年にはJリーグ参入初年度の12年までプレーした津田和樹を始め、町田出身の元Jリーガーもチームに加わりました。そして05年、東京都1部リーグで初優勝を果たし、関東大会3度目の挑戦で念願だった関東社会人リーグ2部昇格を勝ち取ったのです。

 今振り返れば、02年の監督就任から実行した2つの改革が大きな意味を持ちました。チーム運営をNPO法人に移管したこと、そして竹中選手兼コーチの加入が、のちのクラブの成長につながったと言えるでしょう。

 06年からようやく関東リーグ2部の挑戦が始まりましたが、次回はその後のゼルビアの動向について、お話していきたいと思います。

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