【トップチーム創設30周年企画】守屋実の未来への言霊(第13回)

コラム&企画

FC町田ゼルビアは今年、トップチーム創設30周年を迎えました。
本コーナーではクラブ創設者の一人である守屋実相談役に、これまでの歴史を振り返ってもらいます。
どんな想いでこのクラブが作られ、市民クラブとしてどう成長し、Jリーグクラブとなり得たのか。
生き字引と言える守屋相談役からの“言霊”を心に刻み、今後の50周年、100周年につなげたいと思います。
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【第13回 2010年、無念のJリーグ入会断念】


 JFL参入2年目の2010年、ゼルビアは新監督に日本代表の名サイドバックだった相馬直樹氏を招へいしました。初の監督業となった相馬監督が率いるチームは常に上位をキープし、JFL4位以内という成績面におけるJリーグ参入の条件を満たす実力を兼ね備えるチームでした。ただ、Jリーグに参入するためのハードルは、むしろクラブを取り巻くハード面にありました。特に将来的な拡張を控えているホームスタジアムの町田市立陸上競技場のキャパシティーは、懸案事項ではありましたが、これまでの前例にならえば、改修の計画次第で猶予期間も認められていたため、どこかで私も大丈夫だろうと思っていました。

 その一方で当時のJリーグは、経営危機により、クラブ解散の危機に瀕するクラブもあったことから、Jリーグ内でも風向きが変わりつつあったようです。安定したクラブ経営のためには、入場料収入の確保は必須事項。キャパシティーの小さいスタジアムでは、集客にも限界があり、入場料収入の低迷は、クラブ経営の危機に直結しやすいという認識が、Jリーグ内にも広がりつつあるようだと耳にすることもありました。

 こうしてゼルビアはJリーグ正会員入会予備審査の時点で、ホームスタジアムがJリーグ基準を満たしていないという通知を受けました。そのため、ゼルビアはJリーグ入会を断念し、2011年からのJリーグ参入への道が断たれました。

 クラブ事務所の外側の階段でJリーグ側の見解を当時の下川浩之社長(現・代表取締役会長)に伝えると、下川社長も憤りを隠せない様子で、二人とも何とも言えない喪失感に襲われていました。「青天の霹靂という言葉はこういう時に使うのか」と思いましたが、クラブとしての決断をピッチ上で奮闘している選手たちにも伝えなければなりません。

 当時のチームは現在の上の原グラウンドや小野路グラウンドを固定した練習場として使える状況にはなく、トレーニング場は日々変わってしまう“ジプシー生活”でした。かつて日本代表メンバーとして、初めて世界最高峰の舞台であるW杯のピッチにも立った相馬監督が、河川敷の駐車場で着替えをするような環境でも、トップチームは結果を残していただけに、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。それでも、彼らには現実を伝えなければなりません。

 相馬監督や選手たちが集まった鶴川市民センターに下川社長と足を踏み入れると、ただならぬ雰囲気を察した場の空気はシーンと静まり返っていました。私や下川社長の言葉を待っているかのような雰囲気の中、翌年のJリーグ入会断念という現実を伝えましたが、私はその場で何を話したか、まるで覚えていません。

 非情の通告から数日後、天皇杯全日本選手権2回戦、東京ヴェルディ戦を戦ったチームは、近隣にホームタウンを構えるJ2カテゴリーの名門クラブを1−0で下す金星をあげました。その勝利に選手たちの意地を見た気がしました。

 またゴール裏にはサポーターが『まだ何も終わっちゃいない』と記した横断幕を掲げ、選手たちを奮い立たせたことが結果につながり、サポーターには感謝してもし切れません。そうしたサポーターの心意気が選手たちに伝わり、健気に戦う彼らが、格上の相手から意地の勝利をもぎ取ったことに、私は涙を堪えることができませんでした。

 また1つ、クラブには不本意ながらも、“挫折の歴史”が加わることになりましたが、苦境に立たされたからこそ、分かったことがありました。1989年のトップチーム創設から20年あまり。次回は、当時のゼルビアが地域にとって、どんな存在だったのか、お話ししていきたいと思います。

 

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